原子力なんでもQ&A(53) 

岡本孝司

エネルギーレビュー 2017年1月号48ページより転載

安全とは何でしょうか


 原子力規制委員長の田中氏は、新規制基準の審査に合格した原子力発電所について、「安全」というキーワードを避けています。「基準への適合は審査したが安全だとは私は言わない。これがゴールではなく、ますます努力する必要がある」「安全というとゼロリスクと誤解される。できるだけリスクを下げるための審査をしたということだ」「新しい安全要求というか、規制基準に適合しているということを認めたということです。」これはどういう意味なのでしょう。

 我々は、車を運転し、飛行機に乗ります。同じことを飛行機について考えるととても不思議な気がしますね。では安全とは何なのでしょうか?

筆者の大学院の講義では、「安全」は「生命を守ること」と定義しています。現在の社会では、様々なものや仕組みが人の役に立っています。車、家、テレビ、ペン、リンゴ、薬など身近なもの。市町村や会社・学校といった仕組み。法律や契約といった約束事。我々の周りにあるすべてのもの、仕組みや約束事は、様々な便益を提供していますが、大前提として「安全」を確保、つまり人間の生命を守ることが重要です。

一方、辞書などの定義では、「安全」とは「安らかで危険のないこと。平穏無事」「許容できないリスクが無いこと」など、危険やリスクが無い状態を安全と定義しているようです。否定から入る定義というのも、あまりないですね。では、その否定された危険やリスクとは何なのでしょうか? 「危険」については「危ないこと」「生命や身体の損害を被る可能性のあること。またそのさま」とあります。つまり、安全とは、「生命や身体の損害を被る可能性が無い状態」となります。

このように安全という言葉の定義一つとっても、論文が書けるくらいに不安定な言葉です。田中氏は、このような言葉のもつ不安定さを避けるために、あえて「安全とは言わない」と言われているのだと思いますが、逆に、大きな誤解を生みます。不安定な言葉は、田中氏の意図と異なり、受け取る人によって定義が変わってしまうのです。説明責任のある立場にありながら、説明が不十分すぎます。

自分の言葉が理解できないのは、受け取る方が悪いというような態度はおかしいです。それも、あいまいな言葉をあえて用いて、自分の定義でちゃんと理解するように求めるのは、間違っています。福島第一の事故を生んだのは、理解できない方が悪いという、このような国の態度でもあったわけです。説明をあえて避けて、寝た子を起こさないようにして来ていた事故前の態度と全く一緒です。福島第一の事故を一切反省されていないことが、この言葉からも分かります。

あいまいな定義であれば、定義して使えばよいだけです。元原子力安全委員会委員長の班目氏は、事故前に、「絶対安全」ではなく「十分安全」に保つことが必要であると言われていました。田中氏のように、「安全というと絶対安全と誤解される」とは、日本国民をあまりに馬鹿にした発言ですね。逆に安全といわないことで、十分安全でもないと国民のほとんどが思っているという現実です。さて、「十分安全」とは、安全の定義を用いると、「リスクが十分に抑えられていること」です。どれだけリスクを抑えれば「十分」かを、国民が合意形成することが必要になります。

さて、これらのリスクが十分に抑えられている状況を、法律や規則で明文化したものが、新規制基準です。田中氏も言っているように、基準に適合しているかどうかを、規制庁の役人が判断し、それを規制委員会が単に確認しただけです。規制委員会には実力がないので、もっと実力のない規制庁の意図が、ほぼそのまま決定されます。

アメリカの原子力規制委員会は、丁々発止のやり取りがあり、事務局の提案を全否定したり、議論の上多数決で意思決定をしたりという、専門家同士の極めて高度な議論があります。これらは、ほぼ全て議事録で誰でもが読むことができます。ちゃんと議論ができないと困るので、アメリカの委員は、自身の経験だけではなく、情報収集を行います。日本では、規制委員はお山の大将に祭り上げられており、情報収集が極めてやりにくいため、規制庁から上がってくるフィルターのついた情報しか持っていません。

つまり、政策や決定に関しては、ほぼ規制庁の言いなりです。ある意味、裸の王様ですね。規制委員の情報収集能力にフィルターがついているからこそ、安全と言うと絶対安全と誤解されるという、日本人を馬鹿にした言い方もできるわけです。逆に十分安全というと、「十分」の合意形成という、本来の規制委員会の仕事をやらざるをえなくなることを気にしているのかもしれません。火中の栗であることは、さすがに分かっていますので、避けているのでしょう。しかし「十分」の意味をちゃんと議論できていないために、局所的なリスク回避に気をとられて、発電所全体としては危ない状態になっています。

Q:規則を守れば安全なのですか?

規則である新規制基準の話に戻ります。整備十分の車に乗っていても、突然パンクして事故を起こすこともあります。規則通りにしていても事故は起きるのです。車の事故は、設計ミスなどの製造物責任以外は、ほぼ運転者の責任です。十分安全を確保するのは、つまり、十分にリスクを少ない状態で運転を行うのは運転者です。警察官は、法令に従ってちゃんと左側を通行しているかとか、車に変な改造をしていないか、信号を無視していないか、お酒を飲んで運転していないかを監査します。これらの規則を守らないと、十分に小さいリスクに制限ができないからです。

そのうえで、我々は、様々な安全機能を車に付けます。車間距離を保つ装置や、バックの時に車の後ろが見えるカメラを付けて、より安全性を高めようとしますが、規則では要求されていません。このように、規則というものは最低限のルールを決め、そのうえで、安全性をユーザーが高めていくものなのです。もちろん、このルールもどんどん変わります。

車は車検を通っていて、免許を持った人がルールを守って運転しているので、十分に安全であるから街を走ってもよいということになります。車検を通らない車や、無免許の人が運転しているのはルール違反であり、街を走ってはいけません。田中氏が言われているのは、この意味で、車検などのルールを守っているということを確認しただけです。

この車検のルールを新規制基準として決めました。しかし、これはあくまで車検のルールなので、また、その場しのぎで慌てて作ったので、世界標準からは大きく乖離したルールになっています。単純に、今までよりも、まずあり得ない位の大雨が降ってもちゃんと走れることを確認せよというだけです。ワイパーの性能をむちゃくちゃ早くして、また、2本では壊れたとき怖いので10本にしているだけです。大雨の時は事故らなくなるでしょうが、普通の運転はとってもやりにくくなりますね。 しかし、今の新規制基準は普通の運転の時は事業者(運転手)が頑張ればよいので、とにかくワイパーを10個つけて、大雨でも前が見えるようにすることのみを要求しているのです。そんな大雨など100年に1回あるかないかです。快晴の日には、ワイパーがありすぎて前が良く見えなくなりますね。新規制基準では、地震とか竜巻とか、思いつく限りの災害を想定して対策を要求しています。でも、過ぎたるはなんとやらで、運転手に大きな歪がかかっています。

実は規則には大雨の時に対処できるようにせよとのみ書かれています。これを規制庁が拡大解釈して、10本のワイパーを要求しているのが現状です。ある意味、国際基準とも大きくかけ離れた要求事項なのです。担当者の気にしているリスクだけを下げるので、発電所全体のリスクは逆に上がっていると言ってもよい状態です。本来は、規制委員が総合的リスクを評価して最適化すべきですが、単に基準にあっていることのみを見ているそうなので困ったものです。

運転手にぜひ頑張っていただいて、10本のワイパーでも、安全運転をお願いしたいものです。

リスクを十分に抑え国民の合意が必要

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